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TECHNO-NET レポート

日本を変えた千の技術博 (1) 2018.11





2018年10月30日より東京・上野の国立科学博物館で開特別展「明治150年記念 日本を変えた千の技術博」が開催されています。11月の土曜日、上野まで足をはこんで、じっくりと見学しました。

 『日本を変えた千の技術博』は、明治から平成に至るまで、日本を変えた科学技術に焦点を当て、 ストーリーやキーパーソン、製品・部品、文書、写真資料などを一堂に集めて紹介します。 日本の科学技術の歩みを振り返り、その強みや面白さにスポットライトを当てることにより、科学・技術の未来を考える企画です。

「千の技術博」の千が何を意味するのかが不明なところがまず気にかかります。展示された技術が千なのか、展示品が千なのか、展示品の数は細かく数えると千を超えるのでしょうか、千に何を込めて展覧会のタイトルとしたか、展示をみたあとあらためて考えることにします。ちなみに、主催者発表の展示物は約600とのこと。どういう数え方をしたのかはよくわかりません。

 明治150年を記念しての企画ということですが、幕末から現代までの壮大な科学技術の進展にかかわる様々なものを上野に集めて展示するというのは、大変な仕事であったと思われます。

 日本の産業設備は、第二次大戦の米軍による空襲により壊滅的な被害を受け、戦前の設備などはほとんど残っていません。さらに、日本人特有かどうかわかりませんが、古いものを大事にしないところがあり、古い設備はかたっぱしからスクラップにされてきた歴史があります。
今回の展示で大きいのは、何はともあれ、こうした日本中に散らばっている産業の歴史展示を一か所で見ることができた、ということではないでしょうか。こういったものが、常設展示で見学できる施設があれば、と思いました。

全体は、8つのゾーンに分かれての展示です。以下のような分類での展示ですが、産業別に分類されて展示されているわけではないので、若干戸惑いを覚える部分もあります。

第1章 明治維新 科学と技術で世が変わる 
第2章 科学で変える 
第3章 くらしを変える技術
第4章 産業を変える技術
第5章 モノを変える技術 
第6章 生命に関わる技術 
第7章 街づくりを変える技術 
第8章 コミュニケーションを変える技術

それぞれに興味深いものが満載の展示で、圧倒されてしまいます。

まず、触れておかなければならないのは、第1章の明治維新 科学と技術で世が変わる です。明治になって何が変わったか、まず驚くべきは暦と時間の測り方が変わったことがあります。日本で現在使用されている太陽暦が明治政府によって採用されたのは、明治5年のことで、陰暦123日を1873年1月1日として、あたらしい暦がスタートしました。しかもそれが布告されたのは23日前だったといいますから、迅速というか拙速というか、おどろくべきものがあります。

 もう一つは、時間の測り方です。それまで日本では夜明けの始まりと日暮れの終わりを基準として昼夜を別々に等分する不定時法が用いられていました。季節や緯度・経度によって1時間(刻)の長さが昼夜で異なるものでしたが、江戸時代の人には特に不自由を感じなかったようです。これもまた、太陽暦の導入とともに現在の定時法へと変更されるようになりました。
 
 定時法を最も必要としたのが、鉄道でした。日本全国が同じ時間を示すものがなければ、鉄道の運行はできません。ちなみに新橋―横浜間に鉄道が敷設されたのは1872年(明治5年)ですから、ほぼ同じ頃です。

 さらに度量衡の単位の統一も不可欠でした。世界の単位と共通の単位を用いての記述ができてはじめて技術は広く普及します。日本では、明治新政府が明治元年にいちはやく度量衡の統一に乗り出しました。それまでは、分野や地域によって別々だったのです。1891年にはメートル法が公式な度量衡となりました。しかし、尺貫法の使用も認められたため、長い間、尺貫法とメートル法の併用が続いていました。



右:「メートル原器の運搬容器」左:「キログラム原器の運搬容器」ともに1890(明治23)年当時、フランスから原器を運ぶ際に使用された容器。産業技術総合研究所所蔵。

 教育のことも触れておく必要があるでしょう。それまでの寺子屋教育から、公の精度とsとしての学校教育がはじまりました。学校教育で初めて、科学教育が制度として確立されたといっていいでしょう。もちろん、それまでも蘭学があり、科学についても西欧から学んではいたのですが、明治になってからは西洋の学問をそのまま輸入するというかたちであり、蘭学とはつながるところは多くなかったようです。

 たとえば、時間に関していえば、江戸時代にすでに時計が作られていました。代表的なものとして大名時計がありますが、これは不定時法に対応していました。昼夜の長さの変化を繰り込んだ実にきめの細かい方法で対応できるようになっていました。
 それができるだけの細やかな技術があったのですが、職人芸の世界にとどまっていました。もっとも、その職人芸の世界が、現在にまで至る日本のものづくりの技術につながっているのですか。

 いずれにしても、科学・技術を取りいれるスピードは目覚ましいものでした。これは、一方では産業の進展を作り出すのですが、同時に様々の負の部分も作りだしてきました。
明治からの150年を振り返るためには、科学技術の場合でも、このようなことを踏まえておく必要があります。
 
 明治150年の行事は、政府が中心となって進めており、「明治の精神をまなぶ」というようなことを言っていますが、明治からの日本の近代化には多くの負の遺産があることもわすれてはなりません。

千の科学博では、その部分にはほとんど焦点があてられていないことも指摘しておきたいと思います。

ここでは、展示のなかから興味をを持ったものを中心に紹介することにします。


≪温故知新≫

 150年の科学・技術を見てみると、古い技術と思っているも野の中に現代の最先端とつながる技術がいくつも見出せるのに驚いてしまいます。

 イギリスから始まった産業革命を支えたのが水を使う蒸気機関であることは、よく知られています。また、水を使わずシリンダー内の空気を外部から加熱冷却を繰り返すことで動力を得るスターリング・エンジンも産業革命の時代に発明されました。

 その後、ガソリンエンジンやディーゼルエンジンの普及により、スターリングエンジンは忘れ去られたものになりましたが、1970年代の石油危機以降、あらためて環境にやさしい動力源として注目されるようになりました。その原型を見ることができます。

 また、蒸気機関は現在も火力発電で使われていますが、産業革命のころの蒸気タービンの原型であるパーソンズタービンも展示されています。ロンドン科学博物館に展示されているものによく似ており、ごく初期のものといいます。



スターリングエンジン 所蔵:国立科学博物館




蒸気タービンの原型のひとつ パーソンズタービン
(東京工業大学蔵)

電気自動車
 21世紀になって自動車の世界は急速に電気自動車に向かっています。その歴史は古く、1915年には、すでに製品化され、日本にも輸入されていました。当時の電気自動車が展示されていました。ミルバーン社の製品で、日本国内ではヤナセが発売していました。

 GE社のモーターを搭載、時速20〜40kmで走ったようです。ただし、バッテリーが重いことなどから、国内では普及したなかったようです。ここでは紹介されていませんが、日本でも、電気自動車がいくつか生産されていた、といいます。これも温故知新のひとつといっていいでしょう。


電気自動車 1920年頃 国立科学博物館蔵)

ちなみに、自動車のコーナーで目を引いたのが、日本発のエンジン、ロータリーエンジンを搭載したマツダロータリーコスモでした。



●材料技術
 技術・材料技術に興味があり、千の技術博でどのような取り上げ方をするのかに関心がありました。しかし、材料技術の展示は、なかなか興味を引くようにつくりあげるのは難しいところがあります。

 日本の化学工業は、硫酸やソーダ、セメントからの生産から始まっています。初期の硫酸はセメントは樽に、硫酸は陶器製の容器に保存されていました。欧米ではどうだったのか気になるところです。



 セメント樽と陶器製硫酸容器

・セルロイド
 日本の輸出を支えた製品のひとつがセルロイド製の玩具でした。1930年代日本はセルロイド生産で世界一になり、実に多種多様の製品がセルロイドで作られました。戦後のプラスチック時代の基礎は、セルロイドで培った成形技術にあると言えそうです。

 なお、セルロイドに関しては、横浜にあるセルロイドハウス横濱館に厖大なコレクションがあります。今回の展示は、セルロイドハウスのコレクションのほんの一部です。

セルロイドハウス横濱館 http://www.celluloidhouse.com/





・数奇な運命をたどった射出成形機

 プラスチック成形は射出成形が中心ですが、射出成形機が日本で最初に使われたのは、太平洋戦争の最中、1943年のことでした。当時、軍の要請によりポリスチレン製のレーダー部品の研究をしていた日本窒素肥料が、ドイツから射出成形機を購入しました。その輸送は、ドイツの潜水艦Uボートが行いました。このUボート自体が、ドイツから日本に譲渡されたものでした。このIsoma射出成形機は、射出量は30gと少量でした。

 戦後、日本窒素肥料は、Isoma射出成形機をモデルとして名機製作所に製造を発注、そこで生産されたのが国産の全自動電動機械式射出成形機です。その後、この機械をモデルとして国産の射出成形機が作られるようになりました。

 一方、Isomaの射出成形機は、1960年頃まで実際に使われていましたが、その後はスクラップ同然で放置されていましたが、その後、旭化成に寄贈され、現在も同社で保存されています。



Isoma 射出成形機は化学遺産に登録されています。
http://www.chemistry.or.jp/know/heritage/05.html#027

・日本発の新素材 炭素繊維
 炭素繊維は、日本で開発された素材であり、現在では航空機から自動車まで、軽量化素材として使われるようになっています。この開発の背景には、日本の繊維工業の発展の歴史があります。展示では、エジソンの電球に使われた竹を炭化して作ったフィラメントを炭素繊維のはじまり、としていました。

 現在の炭素繊維とつながるか、若干無理のある説明かもしれません。しかし、現在のPAN系炭素は進藤昭男博士(大阪工業試験所)、ピッチ系炭素繊維は大谷杉郎博士(群馬大学)の開発になるもので、日本発であることは町がありません。

 自動車のボディ、燃料電池車用の水素燃料タンク、スポーツ用義足などが展示されていましたが、いずれも次世代の生活を変えることが期待される素材として炭素繊維が使われていることがわかります。




・合成ゴム
 一見何の変哲もない黒いゴム板ですが、これが日本で第二次大戦中に生産された合成ゴムです。
 ゴムは、タイヤ、シール、パッキンなどに欠かせない材料ですが、原料の天然ゴムの生産地が限られていることから、第一次大戦以降、合成ゴムの研究が盛んに行われるようになりました。1930年代には、ドイツでブナS(現在のSBR).ブナN(現在のNBR),アメリカではクロロブレンゴムが開発されました。

 日本でも30年代がら研究開発がスタートしています。1942年には、京都大学化学研究所で日産200sの工業化試験が行われています。
 
ここに展示してあるのは、その当時作られたニトリルゴム(NBR)です。開発者の古川淳二博士(京都大学名誉教授)から、京都大学、東京農工大学に寄贈されました。この技術により、1945年には日本化成工業黒崎工場で生産が開始されましたが、終戦までに8トン生産されただけでした。
 

 戦後は合成ゴムの研究自体も禁止され、研究が再開されたのは、1955年のことでした。



この合成ゴムは、化学遺産に登録されています。
http://www.chemistry.or.jp/know/heritage/09.html#045


日本を変えた千の技術博(2)  に続く